十兵衛屋敷跡
じゅうべいやしきあと
- 更新日
- 2022/09/13
前半生が謎に包まれている明智光秀の出生地について、江戸時代に書かれた『近江温故録(おうみおんころく)』において、「多賀町佐目に明智十佐衛n門が移り住み、二、三代のちに光秀が出た」とする記述が見つかっています。また、滋賀県多賀町での現地調査により、光秀を守った「見津五人衆」や「十兵衛屋敷跡」といった、光秀にまつわる口伝が同町に多く残っていることもわかりました。
さらに、山崎の戦い(1582年)では、多賀氏・久徳氏・土田氏などの「犬上衆」が光秀の家来ではなかったにもかかわらず、昔の旧き好み(ふるきよしみ)で参戦したとも言われています。多賀大社には、武田や織田、豊臣等、戦国武将からの書状も現存しています。
ほかにも光秀にまつわる伝承の残る場所として、「カミサン池」(井戸)や「十二相神社」があるほか、浅井長政や織田信長に焼討ちにされたといわれる敏満寺城址(胡宮神社)なども見どころです。明智光秀の謎を求めてぜひ近江多賀にお越しください。
所在地 | 多賀町佐目465 |
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アクセス |
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予約の要否 | 不要 |
お問い合わせ | (一社)多賀観光協会
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